石川静 インタビュー

響きあっていかないと争いを起こしてしまう。
うまく響きあっていってほしい。願いがある。

海の中、響きあうことが自分の願い。

夫婦だってうまく響きあわないとうまくいかない。

 

恍惚感、希望がになる

―静さんにとって絵とは?

キャンバスの中は私の娯楽室。今まで生きてきた原体験がないまぜになっている。
原体験、空想、知識、知性、心の中にあるものを生かしていくこと。花、フラメンコ、古事記とか、伝説とかを通して表現している。
古事記とか伝説とか、日本昔話。日本人が戦前まで大事にしてきた道徳観、生きる勇気とかがないまぜになったものがその中にある。みんなそんなことを忘れてしまっている。荒唐無稽と思っている。科学的根拠がないとして否定されている。伝説を知らない人が多い。日本古来のものが科学と無縁で無価値とされている。天孫降臨などありえないと否定する。
科学万能主義になっているけれど、忘れてはいけないものがある。

私の中では、具体的ではないが、ありえないことを想像することが絵になって動きになって、幸せや希望になってきている。
苦悩を描く人もいるけれどそれは他の人に任せる。
自分の恍惚感、希望が色になって表れている。
描いても書いても汚くなることもあるが、自分の考えていた色が出た、ということが起こると嬉しい。
色との格闘。望んでいる色が出てくるようになった。体験が重なってきたからすぐに出るようになった。
この年になってようやく手順がわかるようになった。スムーズに出るのよね。たどり着くのが早くなったかな。

 

キャンバスでのたうち回るとがささやく

―どんなことを感じながら向き合っているのですか

嬉しくなりたいからキャンバスに向き合っている。色は自分の気持ちを表現するもの。自分の気持ちに向き合っているというのかしら。魂を込めている。筆圧にもその時の心の過程が表現されてキャンバスに残る。それが深みになっているかな。器用な人は一発で描けてしまう。私は器用じゃないからキャンバスで這いずり回る。
絵具でのたうち回る時期が長かった。のたうち回るからひらめきが出る。天のささやきのようなもの。のたうち回らないと天はささやいてくれない。

 

―赤い絵が多いですね。追い続けているテーマカラーなのですか

赤い絵はひらめきから出てくる。ぐちゃぐちゃになることも多い。
のたうち回った末にできた。それが私の宇宙観。
私の宙。それが形にならない抽象絵画になっている。絆、宙。
アリンコにも宇宙観がある。庭の中にも宇宙観がある。
小さな雑草のような花にも宇宙があり、感動がある。小躍りするようなときめきを感じる。
毎年同じところにすみれが咲く。毎年すみれの芽が出てくるのに感動する私の姿を見て今は亡き夫は馬鹿らしいと言っていたが、晩年にはその感性を共有してくれるようになってきた。
夫は、こいつのやることを否定してはいけないと思うようになったみたい。60歳くらいになってからかしら。そうね、夫が定年になってから。

 

 

子育て中、人生のどんから絵の道へ

―ライフヒストリーグラフ見ていると、結婚した後低空飛行ですね。そこからどんどん上がってきています。今は最高ですね。

夫の転勤で名古屋に行ったら、もうどん底でした。友達に誘われて絵を始めたのがきっかけでした。
そのあと4年で東京に戻りましたが、家庭が面白くない。うまくいかない。でも、絵を描くと楽しかった。
夫は金沢に転勤になってからはますます家庭を顧みない。浮気の真っ最中だったんでしょう、もう勝手にすればいいと思った。
絵を描いていれば安心だ。
働こうとも考えたけれど、お金にならない。
夫がいないときも絵を描いて夢中になれる。
夫は夫で絵を描かせておけばいいと思っていたのでしょう。でも、絵にのめり込んできたら、主婦でお絵かきならいいが、のめり込むのは主婦としてはやりすぎだと言い始めて、今度は喧嘩が絶えない。

 

評価されようという考えをやめて、由に描く

―どのように絵を描く力を身につけていったのですか。

東京に戻って40代半ばから公募展。二紀会に何度か入選したけれど、続けるのをやめた。
そこでは20年描いていてもまだ会員になれない人もたくさんいた。

何か自分が目指す世界と違うような感じがして。

そこで、評価されようという考えを止めた。好きなように自由に描く道へ方向転換。

そうしたらいちいち落ち込むことがなくなったの。そして新しい世界へ飛び込んだ。

日伊友の会で付き合い始めたの。そこでプロ教育を受けた久村さん、澤田さん、梶先生にも出会った。梶先生は杉並高校の美術の先生で、彼の指導で美大に入った人は多いのよ。

梶先生から「物をよくみなさい」と言われた。当時はアトリエに入れてもらえなかった。

ある時期モデルにしてくれるようになった。先生のアトリエに入れる、と嬉しくて。

20分モデルして、5分休む。そうすると、先生の絵が変わっていく姿がよくみえるようになった。

先生の使っている絵具を見ることができた。
なるほど、こうやって絵を重ねるんだな、と学ぶ。

先生は私をモデルにすることで学びの機会を与えてくれたのだと。

その後、しばらく経って個展を開催した際に梶先生の奥様から連絡があったわ。

先生が亡くなってしまったこと、100号の額縁とイーゼルを私に遺してくれたこと。

主婦のお遊びだと思っていたら遺してくれないでしょう。

梶先生は私が将来100号の絵を描くようになると予測していてくれたと思うと胸が熱くなる。

 

との出会いで道が開けていく

―日伊友の会での出会いが、画家として力をつけることにつながっているようですね。成長の糧になった様子がよくわかります。

知性の塊のような人たちが集まった会だった。この日伊友の会に所属してどんどん人的ネットワークを広げ、澤田先生や中森先生達とも出会い、歌のショーと一緒に作品を発表することを続けた。国際展覧会に出すこと、日本美術家連盟に入ることを勧めてくれた人もいる。

唯一の発表の場として武蔵野アンデパンダンに参画。ここは入選もなく、賞もない。
誰もほめない、けなさないのが気に入った。
そして、55歳の時、三鷹の芸能劇場で初の個展。三鷹図書館に飾ることを推薦されて寄贈。
そのうちどんどん皆旅立ってしまって、どの会に行っても私が一番のおばあさん。

80歳になってMAF展の厚生労働大臣賞を受賞してから、一気に声がかかるように。
美術雑誌からの掲載依頼、国際展示会への出展依頼。
まだまだ人生これから。死ぬまでキャンバスに向かい続けると思う。

 

2017年6月
インタビュー&執筆 石川慶子